秋篠寺は奈良市の北部の平城京の街区から北西に外れたところ、田園地帯と住宅地が混ざったようなのどかな場所にポツンとある。そのたおやかな名前から女性的で繊細な寺が想像されるが、まさにそれを具現するような優美な伎芸天で有名だ。伎芸天は芸能の成就などの功徳があるとされ、芸能関係、アーティスト、クリエイターなどからの信仰が篤く、国内にはこちらの像しかない。
ずっと訪れたかった秋篠寺への初回訪問は梅の季節だった。近鉄奈良駅近辺から広々とした平城京を通り、更に水と緑が溢れる佐紀楯列古墳を巡る(自分で勝手に決めた)サイクリングコース。お天気が良ければ最高に開放的なルートなので是非試してほしい。
アクセス
近鉄大和西大寺駅からは「歴史の道」経由で徒歩15分ほど。その昔西大寺と秋篠寺の間で所領問題でもめ事があったと伝えられているということは、西大寺も秋篠寺もかつては広大な寺院だったことがわかる。「歴史の道」は奈良市が1972年に定めたハイキングコースで、奈良市をぐるりと取り囲むルート。西大寺と秋篠寺を結ぶルートはその最も西端になる。秋篠寺には東門と南門の二つの出入り口があり歴史の道から来ると南門に当たることになる。今回は東側から来たので東門を入って拝観し、南門から出た。この二つの門は敷地外の塀沿いに簡単に行き来ができる。
境内
南門から入っても東門から入っても境内の静寂と美しく手入れされた雑木林と苔庭にたちまち癒される。奈良ではどの神社、お寺にいっても手入れの素晴らしいところが多く、感嘆する。私が訪れた日も庭師の方が丁寧に掃除をされていた。両側を緑の苔に囲まれた木漏れ日の降り注ぐ砂利道を進んでいくと拝観受付があるので拝観料を支払って中に入る。正面右手に鎌倉時代再建の国宝の本堂が見え、その優雅な瓦屋根のカーブと落ち着いた佇まいにため息が出る。
縁起
鎌倉時代の文書に宝亀7年(776年)光仁天皇の勅願により、善珠が創建したと伝えられている。公式文献上の初見は「続日本紀」に宝亀11年(780年)に光仁天皇が秋篠寺に食封を施入したという記事なので宝亀7年創建は正しい可能性が高い。光仁天皇(とその周辺)は血統で劣る高野新笠から生まれた第一子山部王を皇太子にするために、天武の娘である井上内親王とその子で皇太子であった他戸親王を無実の罪で死に至らせたと言われており、秋篠寺はその供養のための建立であったかもしれない。山部王が皇太子となったのは宝亀4年(773年)のことで、時系列としてはとても自然だ。また、山部王は桓武天皇となって都を平安京に移したが、その後延暦25年(806年)に崩御したのちの五七日忌が秋篠寺で行われている。また、秋篠寺に隣接してある八所御霊神社は桓武天皇が死に追いやった自らの弟早良親王を始めこの時代の怨霊を祀っているのもなにがしかの事実を物語っているのだろう。
寺宝
国宝:
本堂 鎌倉時代
重要文化財:
伎芸天立像 頭部(奈良時代)と体部(鎌倉時代?)で時代が異なる。
体部は運慶作という説もあるようだがわからない。とても女性的で、包み込むような優しさとセクシーさを感じる。御堂に入るとすぐに少し首をかしげていらっしゃるお姿が目に入る。そこからなかなか目線を外せないほど魅力的だ。伎芸天像は珍しく(国内でこれ一体のみとか)、この像は歯を見せる露歯菩薩の特徴も持っている。
薬師如来(本尊)室町時代?
日光・月光菩薩 平安時代後期? 薬師如来とはそもそも一具ではない
帝釈天立像 頭部(奈良時代)体部(鎌倉時代)奈良国立博物館寄託
その他
花
春は梅や桜が美しい
お詣りを終えた後も白砂の美しい本殿前から去りがたく、しばらくベンチに座って時間旅行を楽しんだ。