神護寺展に行ってきた

奈良への転居が目前に迫ってきて家の中は段ボールだらけなのだが、東博でどうしても見たい展示があり昼から上野へ。奈良日記なのに奈良じゃない。。。と思われるかもしれないが、今回の「神護寺展」は奈良博で少し前に開催され非常に評判が高かった「空海展」とも密接な関係があり、春に神護寺にも行った私としては是非行っておきたい展示だった。

しかし、この狂気じみた暑さ。上野駅から日光を遮るもののない上野公園を通って東博にたどり着くまでにまさに「無我の境地」に到達できた気分だ。ちょうど12時くらいだったのでまずは体を休めてから展示に入ろうと思い、東博内の「ゆりの木」でネギチャーシューラーメンをとアイスコーヒーを。変わらずお上品なお味。塩分水分を補給していざ。

東博の入り口にどどーーんと看板が

神護寺は京都の西、立命館大学のあたりから更に山に入ったところにある。神護寺は初夏の青紅葉、そして秋の紅葉でとても有名なお寺だが、奈良時代と平安時代を繋ぐ知れば知るほど面白い歴史を持ったお寺でもある。詳しくは是非Chrononautの神護寺の記事を読んでみてください!


そもそもは和気清麻呂の和気氏の氏寺の高尾寺だったが、奈良時代が終わり、都が長岡京を経て平安京に移るころ、桓武天皇に重用された清麻呂は高尾寺に加えて神護寺の建立を願い出て認められる。神護寺と高尾寺はやがて統合されたようで、唐から戻った空海を逗留させ、密教の中心となる寺のひとつとなっていく。最澄を始めとするその時代の名だたる僧や貴人へ空海が灌頂(密教の洗礼のようなもの)を与える場所にもなり、平安時代には絶大な権威を誇った神護寺だったが、空海没後、少しずつ荒廃していき、鎌倉時代には荒れ果てていたようだ。それを知った文覚という修験僧が後白河法皇に神護寺再興を訴えるが、疎まれて(文覚がかなり執拗だったらしい)伊豆に流されてしまう。しかし運命とは面白い。文覚はそこで頼朝と出会い、頼朝を平家追討へと鼓舞し、頼朝と後白河法皇を繋いで平家追討の黒幕のような役割を務めることになる。その縁で頼朝と後白河法皇から多大な援助を得て、神護寺や東寺といった空海に縁のある寺を再興していく。文覚はとても興味深い人物だ。

展示内の写真OKの場所

東博の「神護寺展」では神護寺が辿ってきた興亡の歴史とそれにかかわってきた人たちが残した素晴らしいものを見ることができる。今回の展示では奈良博の「空海」展で展示されていた高尾曼荼羅を始めとする宝物、神護寺で直接拝んだ仏様たち、そして5月に数日間だけ行われる神護寺宝物の虫祓いの際に偶然にも見ることができた書画の数々など再会を喜んだものに加え、初めて見る素晴らしいものもとても多くあった。この展示で神護寺ファンが増えたのでは~~、と思う。

何といっても楽しみにしていたのは神護寺ご本尊、薬師如来さまとの再会だ。実際に神護寺で拝した時はかなり高いところに置かれていたこともあり、見上げるような大きさ、という印象が強かったのだが、東博ではもう少し見やすい高さに立っていらしたので、意外にも「あら、思っていたよりも小さかった!」と驚いた。それでも薬師如来様の荘厳な雰囲気と厳しめの表情、そしてやや無骨なほどの体躯に平安でも鎌倉でもない、奈良を感じて思わず2回も手を合わせてしまった。また今回は仏様の周りを360度回れたことも素晴らしかった。

また秋に神護寺に行こう、紅葉を見て、瓦投げをしよう、と誓う。

図録の中から紅葉の神護寺

この記事を書いた人

Chrononaut M

慶應義塾大学文学部史学科卒、コロンビア大学ティーチャーズカレッジ英語教授法(TESOL) 修士。Q-Leap株式会社 取締役
2024年に東京から奈良に転居。

外資2社に計10年ほど勤務。その間Chicago、NY、Geneveに計4年駐在。結婚と子育てで一旦仕事を離れ、10年間の専業主婦時代を過ごす。3人の子育て中に再度社会に戻るために本格的に英語をやり直し、2011年にコロンビア大学ティーチャーズカレッジでTESOLを取得、

2014年にビジネス英語研修会社 Q-Leap を愛場吉子と共同設立。企業のエクゼクティブ担当として数多くのプライベートレッスンを現在も手がけている。Q-Leapは今年設立10年を迎えた。「明日の日本代表に真の英語力を!」がスローガン。

コロナ禍にほぼ全てのレッスンがリモートで可能になり、残りの人生は好きなところに住んで好きな仕事をすることに。2024年夏に奈良に転居し、自分の記録として、また多くの人に奈良の魅力を知ってもらいたくChrononaut Naraを立ち上げる。

現在は奈良と東京の2拠点で活動中。奈良8割、東京2割。
推しは、藤原不比等と聖武天皇と早良親王。。。書いているときりがない。