多聞城と眉間寺(みけんじ)

佐保山あたりに住んでいるのでこの辺りはいつも自転車でぐるぐる巡っているのだが、歴史的に興味深いものがごろごろ転がっていて(大抵石、ですが。。)楽しみが尽きない。

眉間寺についてはどこかでArticleのほうに入れたいと思っているので、ちょっとざっくり。廃仏毀釈で今や跡形もなくなったこの寺は創建は奈良時代で、そもそも聖武天皇、光明皇后、そして淡海公(藤原不比等)の三人の廟を守護するという目的があったらしいが、創建当時の記録はほぼ残されていない。鑑真の孫弟子にあたる行潜(元山田寺の僧)が開山したと史料にはある。

聖武天皇陵に残される眉間寺の塔の礎石



古代眉間寺は聖武天皇陵の陵墓がある佐保山の東の続きの眉間寺山上にあったが、永禄二年(1559)三好長慶の命を受けて松永久秀が大和国に攻め入り、南都を占領、奈良を見下ろす小高い山の上にあった眉間寺(と西方寺)を移転させ、そこに多聞城を築城する。この築城の際に聖武天皇陵の東にあった光明皇后陵も破壊されてしまう。史料では松永に追い出された眉間寺は「今小路」(今の今小路町辺り)に移ったそうだ。


この多聞城は伝説の城で、金箔障壁画のある豪華絢爛な御殿や茶室、庭園などを備え、更には佐保川という自然の地形を利用した二重の濠のある城だったらしく、佐保川と内濠の間には家臣を住まわせた。今も残る多聞町には信じられないほど古い家がたくさん残っていて、その土壁の風情が私は好きだ

夕暮時、多聞町にある古い家

宣教師ルイス・アルメイダは多聞城を「今まで見たことも無いほど美しい城で天国のようだ」と書簡に書いている。三好長慶の死後、松永久秀は織田信長に滅ぼされ、多聞城は16年余りの短い命で、織田信長によってその基礎さえも破壊(1577)されてしまう(城の内装の一部などは二条城へ移築されたそうだ)。

三好長慶をかなり参考にしていたと思われる織田信長だが、一説によると今までにない壮麗で斬新な多聞城に嫉妬していたとかいないとか。。。多聞城の破壊とほぼ同時(1576)に安土城を作っている。様々な面で斬新だった多聞城を信長は安土城築城の際に真似したので、自分のオリジナリティを主張するために元の多聞城は基礎まで壊したかったのでは?と勝手に想像を膨らませている。現在多聞城跡は若草中学校となっていてその影は史跡を示す看板以外全くない。しかし、跡地からの眺望は素晴らしく、眉間寺が「眺望寺」と呼ばれていた時代もあったというのが納得できる。

松永久秀が織田に討たれ、多聞城が破壊されつくした後、眉間寺は最終的に聖武天皇陵のある佐保山に移り(時期は不明)、再建される。江戸時代の史料などには佐保山のほぼ全体に広がる眉間寺の様子をみることができる。現在の聖武天皇陵の参道は近世の眉間寺への参道だったようでだ。この絵の辺りは今もこの地形がしっかり残っている。


その後、眉間寺は明治の廃仏毀釈で寺としては完全に消えてしまうが、東大寺戒壇院や興福寺とも縁が深かったようで(その創建当時の役目を考えれば当たり前と言えば当たり前なのかもしれないが)、東大寺には眉間寺の如来像三体が伝わっている。

数年前にこの三体は東大寺ミュージアムで展示があったようだが、私は見ていない。またいつか公開されないかと待っている。

この記事を書いた人

Chrononaut M

慶應義塾大学文学部史学科卒、コロンビア大学ティーチャーズカレッジ英語教授法(TESOL) 修士。Q-Leap株式会社 取締役
2024年に東京から奈良に転居。

外資2社に計10年ほど勤務。その間Chicago、NY、Geneveに計4年駐在。結婚と子育てで一旦仕事を離れ、10年間の専業主婦時代を過ごす。3人の子育て中に再度社会に戻るために本格的に英語をやり直し、2011年にコロンビア大学ティーチャーズカレッジでTESOLを取得、

2014年にビジネス英語研修会社 Q-Leap を愛場吉子と共同設立。企業のエクゼクティブ担当として数多くのプライベートレッスンを現在も手がけている。Q-Leapは今年設立10年を迎えた。「明日の日本代表に真の英語力を!」がスローガン。

コロナ禍にほぼ全てのレッスンがリモートで可能になり、残りの人生は好きなところに住んで好きな仕事をすることに。2024年夏に奈良に転居し、自分の記録として、また多くの人に奈良の魅力を知ってもらいたくChrononaut Naraを立ち上げる。

現在は奈良と東京の2拠点で活動中。奈良8割、東京2割。
推しは、藤原不比等と聖武天皇と早良親王。。。書いているときりがない。