奈良に転居したとは言えまだまだ東京での仕事も多く、今月もあれこれスケジュールを調整しながらも結局4往復になりそうだ。
今日10月17日は興福寺南円堂の年に一日限りの特別開扉なので、是非行きたいと思っていたが16日は東京で終日仕事があったので帰れるかどうか。。。17日の午前中にはレッスンと美容院も入れていたのだ。
しかし1年に一度だし、やはり行きたいという気持ちが高まり、9時からのオンラインレッスンを済ませ、ダッシュで神楽坂で髪を切り、そのまま東京駅から12時前の新幹線に飛び乗った。
近鉄奈良には3時前に着いたので「間に合った~閉門まであと2時間!」と思って南円堂に行くと長蛇の列。御朱印をもらう列も、拝観の列もかなり長い。きっと今日は特別な御朱印なのだろう。実は5時からもオンラインレッスンがあり、それまでに自宅にたどり着かなくてはならないのだ。列に並びながらも大丈夫かと一瞬不安になったが、比較的スムーズに列は進んだ。
近鉄奈良に着いた時から感じていたのだが、空気の中に金木犀の薫りが常に漂っている。心地の良い秋の空気と金木犀の薫りで待ち時間もあっという間。
拝観料は300円。奈良太っ腹。。。
いつもは上がることが無い南円堂のお堂に上がり、ぐるりと時計回りに回って北側の入り口から靴を脱いで入る。この八角堂は東面しており、中の不空羂索観音も東を向いておられるので、北から入ると観音様の左側から入ることになる。古代、身分の高い人は北を背に南面するので、仏像も南面していることが多いがこちらの観音様は東向きだ。
古い伽藍配置を持っているお寺の基本形は法隆寺だという。ひとつのお堂に三尊(東から西に一列に薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来や観音など)を置くスタイルは法隆寺や唐招提寺だが、ここ興福寺ではそれぞれの仏様にお堂をあてているので、東金堂に薬師如来、中金堂に釈迦如来、そしてこの西にある南円堂に観音様、となっている。東は過去世、真中は現世、そして西は未来世を現わしているそうだ。そんな風に伽藍配置と仏様を見てみるのはとても興味深いと思った。興福寺の南円堂は観音霊場である西国三十三所の第9番札所でもあり、観音様は阿弥陀如来の脇侍菩薩でもあるので西に置かれているのだろう。
南円堂は813年、藤原冬嗣が父である藤原内麻呂追善のために建立したそうだ。北円堂を元正・元明天皇が藤原不比等追善のために建てたことに倣ったのかもしれない。
国宝不空羂索観音菩薩坐像 鎌倉時代 康慶
とてもふくよかで慈愛に満ちた表情の観音様で、拝観している人たち皆が手を合わせていたのがとても印象的だった。公開されることが少ないからか、金箔が綺麗に残っていて神々しい。ここでは美術品としてではなく、祈りの対象として大切にされている。この観音様は半身に鹿皮をかけていらっしゃるというのが特徴的だ。
また、同じ堂内には国宝四天王立像が観音様の四方を固め、観音様の左右には国宝法相六祖坐像という高僧の肖像彫刻が並んでいて迫力の空間だ。
ちょっと複雑な興福寺四天王像お引越しの事情
興福寺には多くの四天王像がお堂ごとにあるが、その波乱の歴史と共にお像たちは何度も移動しており、近年になってだんだんとそもそもどこにあったのかなどが分かってきた。またその研究結果に基づき、新中金堂落慶のタイミングで更なる移動が起きた。
現在南円堂にある四天王像はもと仮講堂にあったものが2017年の新中金堂の落慶のタイミングでお引越ししてきたもので、運慶の父康慶一門の作(2018年に国宝指定)だ。長い時間を経て、同じく康慶作の不空羂索観音坐像とこれでやっとセットになったということだろうか。
それに伴い、以前に南円堂にあった四天王像は新中金堂に移動した。こちらは息子運慶一門の作(国宝)で元は北円堂にあったと思われる。理由として素材が北円堂の無著・世親増のものと同じ桂材を使っていること、京都国立博物館にある「興福寺曼荼羅」に描かれた北円堂の四天王像に合致すること、のようだ。北円堂には現在平安初期作の四天王像があるので、運慶の四天王像は新中金堂にお引越しとなったようだ。
更にご興味のある方はこちらへ
観仏日々帖
神奈川仏教文化研究所HP「運慶仏 発見物語〈その8ー10〉」
次の開扉は来年の10月17日。境内の三重塔あたりの木が少しだけ色づき始めていた。