初めて百毫寺を訪れたのは萩の季節も終わった11月初旬だった。友人がSNSにアップしていた鄙びた山門に至る長い石段、そしてその両脇からしだれかかるたくさんの萩がとても美しく、是非訪ねてみたいと思っていた。奈良公園辺りから新薬師寺くらいまでなら歩いてもみようかと思うが、百毫寺はさらに東南に下がるのでちょっと歩くのは厳しいかもしれない。
アクセス
奈良市街地東南部、春日山の南に連なる高円山の山麓にある。
奈良公園や近鉄奈良駅あたりからだと循環バスで「高畑町」下車でさらに20分ほど歩く。新薬師寺から歩いても同じくらいだろうか。百毫寺近辺は今にも崩れそうな古い黄色い土壁の家が今も多く残っていてとても風情がある。「ながめのよい花のてら 百毫寺」という白い大きな看板が立っているので入口は分かりやすい。そこから少し石段を上っていくと、さらにその先に山門に至る古い石段がまっすぐに伸びている。両脇は萩がぼうぼうと茂っていてその詫びた美しい佇まいがさらにその先への期待感を盛り上げてくれる。山門をくぐり、さらに少し石段を上ると左側に案内所があり、そこで拝観料を支払って境内に入る。
ここで是非登ってきた方向を振り返ってみよう。素敵な景色が待っていること間違いなし。
由緒
伝承によるとこの百毫寺の地には奈良時代の和銅年間に天智天皇の皇子である志貴皇子(668?-716)の山荘があったとされ、境内には志貴皇子の歌を刻んだ碑が立っているが、まさにこの高円山の山麓の様子を歌った歌だ。この碑の正面に立つとその後方にあるのが高円山だが、さらにその直線上に志貴皇子の墓がある。
「高圓の野邊の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに」(万葉集巻二 231)
志貴皇子は天智天皇の第七皇子で、壬申の乱後は天武系に皇位継承が移ったことで政治と比較的無縁な立場で生涯を送り、和歌などの文化的なことに熱心で万葉集で彼の繊細な歌を知ることができる。しかし、歴史の転換の中で天武系は途絶え、志貴皇子の薨去54年後にしてその息子である白壁王が老齢で光仁天皇として即位(770)する。白壁王は平安京に都を移した桓武天皇の父なので、現在の天皇家は志貴皇子の男系子孫だといえる。白壁王の家族はこの百毫寺のある地域に屋敷を持っていたようである。
百毫寺の由緒は明らかでないが、西大寺などの多くの寺を中興した叡尊(13世紀)によって中興されたらしい。その後道照が一切経をもたらし、百毫寺内に経蔵をたてて収めたところから「一切経寺」とも呼ばれていた。
境内
境内は広々としていて人も少なく、ゆったりと見学できる。ここは春日山から列なる高円山の麓なので、西側に広がる奈良の街が一望できる。右手遠くには大仏殿、正面には生駒山、と晴れた日は絶景だ。朝早めの時間に拝観に行ったからか、境内を綺麗に掃き清めているのを見ることができた。11月なので最も花の少ない時期だったが、3月下旬~4月中旬は奈良三名椿と呼ばれる「五色椿」、9月下旬~10月初旬は萩、10月下旬~12月、また3月中旬は寒桜を楽しむことができる。
何度も火災や戦火にあっており、古い建造物は残っていないが、本堂、御影堂、宝蔵などがある。
本尊
阿弥陀如来坐像(平安時代末期~鎌倉時代)重要文化財
檜の寄せ木作り
その他寺宝
木造閻魔王座像 (鎌倉時代)
木造太山王座像 (鎌倉時代)体内に残された墨書により運慶の孫・康円の作と判明
授与品
「閻魔大王手ぬぐい」
こちらは人気の商品のようで売り切れていることも多いそう。最近昔からこの手ぬぐいを作っていた職人さんが引退し、新しいところに依頼しはじめたが、一部染が上手くいっていないと案内の女性に聞いた。帰りがけに手ぬぐいが買えるか尋ねると、その新しいものならあるということで数枚譲ってもらった。特に支障はなさそうだ。
花
3月下旬~4月中旬は奈良三名椿と呼ばれる「五色椿」
9月下旬~10月初旬は山門石段沿いの萩、
10月下旬~12月、また3月中旬ごろは寒桜