佐紀楯列古墳群の西の隅にひっそりと眠る女性天皇、称徳天皇(718-770)の一生は波乱万丈でそのまま小説になりそうだ。後世の言い伝えでは多くの心無い噂や伝承で節操のない女性のごとく貶められているが、その多くは作り話だろう。彼女の一生は女性天皇としての孤独と一人の独身女性としての愛のはざまで苦悶し、仏に頼り、権力欲にまみれた藤原氏を始めとする周りの男どもに抗い、聖武の誇り高き娘、天武系天皇の最後の一人として戦い抜いた人生だったのではないかと個人的に思っている。
称徳天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で女性として唯一皇太子となり、父聖武天皇の譲位に伴い天平勝宝元年(749年)即位して孝謙天皇となった。その後一旦帝位を淳仁天皇に譲ったが、母親の光明皇太后の死によって今までバランスを保っていた孝謙上皇と藤原仲麻呂・淳仁の関係が微妙なものとなった。孝謙と淳仁が保良宮に滞在中、病に臥した孝謙は僧道鏡の看病によって健康を回復する。ここから道鏡を寵愛し始めた孝謙は仲麻呂・淳仁と対立し、それが天保宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱を引き起こすこととなる。仲麻呂の失脚に伴い淳仁を廃位させて自らが重祚し称徳天皇として即位する。その後、有名なスキャンダル「宇佐八幡神託事件」などがあり、その後病に伏し、道鏡に会うことなく神護景雲4年8月(770年)崩御する。
陵・参拝
平城京から自転車で北西に交通量の多い国道52号線を進むとやがて佐紀楯列古墳群のこんもりとした森が見えてくる。その森の最初の一角、国道沿い右手に佐紀高塚古墳(称徳・孝謙天皇高野稜)はある。意外に広々とした前庭部分を通り、称徳天皇の女性としての辛さを思い手を合わせる。敷地内は綺麗に手入れされ、この日も松の木の剪定に3人ほどの庭師の方が取り掛かっており、陵墓が美しく保たれていることに安堵する。
この古墳には4世紀末~5世紀前半ごろの築造ではないか、という見方もあり、8世紀にはありえない前方後円墳であることから称徳天皇の陵墓を自らが発願した西大寺の更に西側に求める説もあるようだ。しかし同じく4世紀ごろの築造と考えられる他の佐紀古墳群とこの称徳天皇陵には決定的に違うところがある。それはその向きだ。他の全ての佐紀古墳群は陵墓の頭が南を向いているのだが、この称徳天皇陵だけは西を向いている。これは称徳天皇の仏教への傾倒を考えれば至極自然で、西を向くというのは西方浄土のほうに向く、ということだろう。この一基だけが西を向いている事実はかなり重要なのではないかと個人的には考えている。また、その古墳の形が他の物ほど明瞭でなく、かなり荒れていてなんとなくいびつになっているのももしかしたら元となる古墳があったものを称徳天皇陵墓に作り替えた、という可能性はないのかなど、つい素人はいろいろ想像してしまうのである。長屋王の墓も古い古墳の再利用だった、ということもあるのでさほど荒唐無稽とも思われない。
実際の彼女が何を考え、どのように判断し行動したかは断片的にしか分かっていないのでそれを正確に知ることは難しいが、自分が聖武という偉大な天皇の娘で、天武系の最後の天皇として両肩に国家元首としての責任を負い、独身で、周りは自分を利用しようとする者ばかり、としたらどれほど孤独で辛い人生だったかと思う。そこに道鏡という僧が出てきて心を通じて恋愛をし、そして彼にのめりこんでしまう。それの何が悪いのか、と女性であれば称徳天皇に同情を禁じ得ないのではないだろうか。
道鏡も後世の人々によってさんざんの言われようだが、本当にそれほどの悪人だったのだろうか。最後は称徳の死に目にも会えず、称徳亡き後ずっと称徳の墓の傍を離れずにいた、とある歴史書で読んだ。二人は本当にお互いを心から愛していたのだろうと想像する。その後彼は下野の国(現在の栃木県辺り)に左遷され、宝亀3年(772年)その地で亡くなる。称徳崩御より2年と経っていない。
そういえば石原さとみさんがNHKの古代ドラマで称徳天皇(安倍内親王)を演じていたが、なんだかイメージ違う。。。(笑)
アクセス
近鉄「平城」駅より徒歩15分ほど
〒631-0803 奈良県奈良市山陵町324