古代から様々なタイミングで宮は動いてきた。飛鳥時代頃は天皇がかわるたびに宮も動いてきたが、奈良時代になって平城宮に固定されてくる。しかし、聖武天皇はその治世に何度も宮を動かしており、それは平城宮(奈良)、恭仁京(京都)、紫香楽宮(滋賀)、そして難波宮(大阪)と広範囲にわたり、さらにその動機が明確には分かっていないということで永らく「謎の行動」とされてきた。
今年は聖武天皇御即位1300年ということもあり、さまざまな催しが行われているのだが、先日10月27日に大阪の難波宮のすぐ近くにある大阪歴史博物館で奈良文化財研究所(奈文研)との共同講演会が行われた。その内容は、聖武天皇が関わったこの四つの宮を現在管理、研究されている最前線の研究者の皆さんからのお話を聞き、聖武天皇と四つの宮の謎をアップデートするというものだった。会場は500名収容くらいだったが、事前申し込みのみで満席だったようだ。
基調講演は大阪歴史博物館名誉館長の栄原永遠男氏で、「聖武天皇の希望、苦悩、救い」というタイトルで、聖武天皇が当時の疫病(天然痘)の大流行を境にその行動様式を変化させていったことについて文献や年表から説明してくださった。その根本となるところに「世の中に災厄が起こるのは統治者としての自分に徳が無いためである。」という考えがあり、聖武が自分を責めていく中で、さらに仏教にのめりこんでいく、というとても人間的な姿が浮き彫りになった。聖武天皇の行幸の性格が疫病前の「天武ー草壁皇統の正統な継承者」としてのものから、疫病後の「律令的・仏教的性格の強い」ものになっていく、というお話は特にとても興味深かった。先生のまとめられた年表もとてもわかりやすく、ありがたい。
栄原先生のお話の後はパネルディスカッションとなり、各宮の代表の方が宮の発掘最前線とその現状についてのご報告をされた。平城宮においてはこの即位1300年のタイミング、それも聖武即位と同じ2月に大嘗祭(天皇の即位後に初めて行う新嘗祭)関連の木簡が出土し、現在平城宮跡資料館と奈良国立博物館で特別展示が行われている。このタイミングで、というのもすごいことだ。聖武天皇が宮を転々としたことに関して、「逃げた」とか「気が弱い」「ご乱心」などとかつては散々な言われようだったが、コロナ禍を経てきた私たちは今だからこそ聖武天皇の気持ちが1%くらいでもわかるようになったのではないかと思う。疫病大流行の責めを一人で負う。。。など今では考えられないことだが、古代の世界観においてはそれは道理のある事だった。そのようなわけで聖武天皇の度重なる遷宮も「清め、祓い」の性格もあると考えられ、今では聖武天皇のへの評価も大分変化しているようだ。
その他、難波宮では万博に合わせてエリアの整備をすすめているということ、紫香楽宮や恭仁京でも訪れる人がより遺構を楽しめるような工夫をこれからされていかれるとのお話だった。こうした現場の研究者のみなさんの地味な活動のお蔭で私たちにも歴史への窓が開かれることを感謝した3時間半だった。
奈良にいると本当にさまざまな催しが案内もされずに星の数ほども開催されている。これからも様々な展示やイベントに参加して自分の知見を広げていきたいと思う。司会の奈文研の神野恵さんの適切なツッコミと誘導でとてもスムーズなパネルディスカッションを楽しませてもらった。