唐招提寺 奈良から平安へ、脱活乾漆から木造へ

南大門の前に立ち、目を上げたその先にある完璧なまでに優美な天平の甍。しかし鑑真は実際にはこの金堂を見ることはなかった、と言ったら驚く人もいるだろう。見ることが無かったのは鑑真が視力を失っていたからではなく、鑑真の生存中に金堂は存在していなかった、という意味である。歴史の古い寺社は創建当時と現在では全く姿が異なることが珍しくない。というかそれが当たり前かもしれない。私たちが歴史の授業以来、長いこと頭の中で固く関連付けてきた鑑真和上と唐招提寺金堂の関係が、事実によって覆っていた、というのは新鮮な驚きだったし、やっぱり歴史は面白い!!とワクワクするのだった。

今回はお誘いいただき、80年続いておられる奈良の「天平會」の9月会に初参加、帝塚山大学の杉崎貴英教授のお話を伺いながら唐招提寺塔頭の「西方院」と「唐招提寺」を巡る貴重な時間に恵まれた。

古代史においては分かっていないことの方が多く、また100%の確率で言い切ることができる内容も限られている。だからこそ、古代史は私たちの想像を掻き立ててくれるし、魅力的なのではないかと思う。なるべく事実(と思われること)に沿った知識を持つことは大事だが、そこにあるストーリーにこそ歴史の面白みがある。今日唐招提寺で見かけた修学旅行生を率いる先生は、「はい、こちらが重要文化財です。こちらが国宝です。」としか説明していなかった。それってつまらない説明だ。事実かもしれないけれど、何のストーリーも無く、生徒もきっと右から左だろう。横で聞いていて、歴史ってもっと楽しんだけどなあ、とちょっと残念に思った。

歴史

唐招提寺は天平宝字3年(759)、鑑真の私寺として新田部親王の宅地跡に創建された。新田部親王の息子である道祖王(ふなどおう)が孝謙天皇に謀反する橘奈良麻呂の乱に連座したかどで獄死させられたことと関連があるのかないのか、宅地は唐招提寺のものになる。新田部親王の元邸宅にあった経蔵は今でも境内に残っており、唐招提寺で最も古い構造物だ。そして唐招提寺の勅額は孝謙天皇の宸筆(天皇の直筆)であるというちょっと怖い話。

孝謙天皇勅額  プライド高く、真面目であまり融通の利かなさそうな字が正に彼女、と個人的な感想


そして唐招提寺の創建に伴い、平城宮から東朝集殿(役人たちが仕事をする建物)が移築される。私寺であったことから最初はおそらく財政的にもそれほど裕福でなく、東朝集殿を払い下げてもらったのでは、とも言われている。鑑真は天平宝字7年(763)に亡くなり、その後、50年ほどかけて法載、如宝といった弟子たちがその跡を継いで伽藍を整えていくことになる。

唐招提寺が創建され、その姿を整えていく時代は、聖武の娘、称徳(孝謙)天皇の時代が終わり、桓武天皇によって都が平城京から長岡京、平安京へと遷都していく時代と重なっており、非常に興味深い。

晩秋、側溝には紅葉が

金堂

多くの文人墨客に愛でられた金堂は八本のエンタシス列柱を持つ天平様式の傑作。
近年の科学的調査の結果、金堂の垂木の建築材の一部が781年の伐採と判明し、金堂の建築の完成はこれ以前ではないということになった。つまり、鑑真生存中には金堂はまだ無かったということになる。唐招提寺の伽藍は平城天皇による金堂回廊と東塔の造営を持って弘仁元年(810年)に完成する。
さらに現在の本尊、廬舎那仏坐像は光明皇后のために作られたのではないかという見方があることを今回知り、ちょっと興奮。。。杉崎先生に伺うと、2023年の「仏教芸術」にそれに関する論文が出ているとのことで絶対に読もうと思っている。

唐招提寺は瓦も見どころ

講堂

講堂は平城宮から移築された建築物で、境内でも最も古いもののひとつであるにも関わらず、本尊の弥勒仏坐像は弘安10年(1287)の作だということが銘からわかっており、建物よりも本尊が新しいという逆転現象がおきている。これに関しては現在の金堂の本尊である廬舎那仏が鑑真の時代には講堂に安置されており、金堂の完成と共に移されたのではないか、と考えられている。確かに東大寺などでも仏様が時代と共に他のお堂に移るのはよくあったことのようだ。

新宝蔵

ここには新たに国宝となった六体の仏像(それも欠損がある状態にも関わらず国宝指定となった)に加えて有名な創建当時の鴟尾(しび)や孝謙天皇の勅額など、見所満載だ。

今回は珍しくとても端正な聖徳太子立像も展示されていた。歴史本のどこにも書いていなくても「橘三千代―光明皇后―孝謙(称徳)天皇」という女性直系三代の親密さを考えれば、橘三千代に始まる聖徳太子信仰が孫の孝謙(称徳)まで脈々と伝わっていても不思議はなく、私はついその妄想に浸りながら素晴らしく美しい聖徳太子の幼年の像に見とれていた。

寺宝


唐招提寺には国宝だけでも30近くあり、全てを網羅できないので有名なものだけ。

国宝 鑑真和上坐像(御影堂) 脱活乾漆造
伺ったところによると最近の研究で和上像の体内に複数の白い物体が埋め込まれていることが分かり、これは鑑真和上の遺骨の一部なのではないかという説もあるそうだ。

国宝 廬舎那仏坐像(金堂)  脱活乾漆造

国宝 千手観音立像(金堂)  木心乾漆造

国宝 薬師如来立像(金堂)  木心乾漆造

国宝 伝衆宝王菩薩立像(新宝蔵)  木造

重要文化財 如来立像 (新宝蔵)  木造

唐招提寺の仏像群は脱活乾漆から木造への移行時期を示すものとしてもとても貴重だというお話を伺った。

墓所の苔庭

境内は四季を通して花や青葉、紅葉を楽しめる。

訪れた9月は萩の季節だった。

春(4月~5月)には「瓊花(けいか)」という鑑真和上の故郷の花が咲く。
夏には菖蒲や蓮の花が美しく、秋には境内が紅葉に彩られる。
また鑑真和上の墓所は苔が見どころ。

境内の萩


中学以来の「天平の甍」再読

アクセス

近鉄橿原線で西ノ京下車。徒歩10分。

近鉄奈良からであれば西大寺で乗り換えて2駅なので、20分くらいで着く。西ノ京駅からは右に行けば薬師寺、左に行けば唐招提寺。

この記事を書いた人

Chrononaut M

慶應義塾大学文学部史学科卒、コロンビア大学ティーチャーズカレッジ英語教授法(TESOL) 修士。Q-Leap株式会社 取締役
2024年に東京から奈良に転居。

外資2社に計10年ほど勤務。その間Chicago、NY、Geneveに計4年駐在。結婚と子育てで一旦仕事を離れ、10年間の専業主婦時代を過ごす。3人の子育て中に再度社会に戻るために本格的に英語をやり直し、2011年にコロンビア大学ティーチャーズカレッジでTESOLを取得、

2014年にビジネス英語研修会社 Q-Leap を愛場吉子と共同設立。企業のエクゼクティブ担当として数多くのプライベートレッスンを現在も手がけている。Q-Leapは今年設立10年を迎えた。「明日の日本代表に真の英語力を!」がスローガン。

コロナ禍にほぼ全てのレッスンがリモートで可能になり、残りの人生は好きなところに住んで好きな仕事をすることに。2024年夏に奈良に転居し、自分の記録として、また多くの人に奈良の魅力を知ってもらいたくChrononaut Naraを立ち上げる。

現在は奈良と東京の2拠点で活動中。奈良8割、東京2割。
推しは、藤原不比等と聖武天皇と早良親王。。。書いているときりがない。