北円堂は日本で最も美しい八角円堂と言われながら興福寺境内ではあまり目立たない奥まった場所にある。境内の西の隅、中金堂のさらに奥にあるので、大宮通り側の北参道から入ってきても猿沢の池側から階段を上がってきても少し遠い場所にある。近鉄奈良駅からは東向商店街を入って100メートルほどですぐ左にある興福寺境内へ続く坂道を登るとすぐ左手に見えてくる。普段は非公開なのでお堂を外から眺めることしかできないが、春と秋の特別開扉(春はGW頃、秋は10月中旬~11月上旬)の時だけはその内部に入ることができる(2024年は一部の像の修復のため秋の特別開扉なし)。
最初に訪ねた折、祈りがそのまま造形になったかのような圧倒的な空間に心底感動したが、時が経ってもその感動が冷めることがない。特別拝観のタイミングを目指して是非奈良まで来て見て欲しいもののひとつだ。
縁起
北円堂は奈良時代のみならず日本史上稀代の政治家、藤原不比等の一周忌を記念し、養老5年(721年)に不比等が支え続けた女帝たちである元明・元正天(母娘)が長屋王に命じて建立させた。平城京の発展と繁栄は不比等の力なくては実現しなかった。興福寺は若草山の麓にあり、平城京のあった場所を見下ろす位置にある。そしてその中でも北円堂のある場所はこの高台の西の端で、当時この場所は平城京をもっとも良く見下ろせる場所だっただろう。元明・元正が不比等の供養のためにここに北円堂を建てた理由がよくわかる。
北円堂がある興福寺は藤原氏の氏寺だったものが大きくなり官寺となったもので、私寺の要素も残していた。興福寺はもともと藤原氏の祖である中臣鎌足が大津京で病に罹った時、妻の鏡女王が鎌足の平癒を祈願して建てた「山階寺」(669年)がその母体となっている。その後壬申の乱(672年)を経て飛鳥の都に移され「厩坂寺」と呼ばれ、更に平城遷都(710年)と共に不比等がこれを現在の場所に移し「興福寺」とした。
官寺でありながら藤原氏の氏寺でもあるというのが興福寺の成り立ちや特徴を物語っている。
堂内
訪れたのは春の特別拝観期間。5月だというのに夏のような日差しの日で、北円堂の周りの玉砂利は白く輝いていた。強い光に慣れた目で堂内に入ると一瞬何も見えないかのように視界がぼうっとし、ひんやりと涼しい空気が流れてくると同時に堂内の仏像群の圧倒的な質量が視界いっぱいに迫ってきた。東大寺三月堂にも似た迫力のある祈りの空間が目の前にあった。堂内はぐるりと一周することができるので様々な角度から仏像を眺めることができる。
721年の北円堂創建時は不比等が信仰したという弥勒仏を本尊に、二脇侍、二羅漢、四天王像が祀られていたようだが、1181年に平清盛の命を受けた平重衡による治承兵火(南都焼討)によって興福寺はほぼ焼失し、北円堂も全て灰燼に帰した。その後復興が始まったものの、北円堂は最後まで手つかずのままで、焼失から20年ほど経ってからやっと再興が本格化した。解脱上人貞慶が勧進し、近衛家実によって進められ、運慶以下11名の仏師が九体の仏像を作ることになったことが記録に残されている。
弥勒仏は源慶・静慶が、四天王と無著・世親の六体は運慶の息子六人が一体ずつ、脇侍菩薩も運慶一門の仏師が担当したらしい。この時すでに「法印」という位を与えられていた運慶は全体のプロデューサーとして腕を振るったと考えられている。
現在北円堂で見られる運慶像は本尊弥勒仏座像、無著・世親の三体のみだ。無著・世親像はそのちっちゃい目が玉眼になっていて、本当に生きていらっしゃるようでもあり、荘厳でありながら親しみやすい印象もある。四天王像は大安寺から移された平安初期の像が安置されている。南円堂の記事にも書いたが、興福寺に複数ある四天王像の歴史は複雑だ。様々な研究の結果を反映して2017年の新中金堂の落慶の際に仮講堂にあった康慶一門作の四天王像は南円堂に移り本尊の不空羂索観音像と揃いとなった。そしてそれ以前は南円堂にあった四天王像(そもそもは北円堂にあったと考えられる運慶一門作)は新中金堂に移動することになった。何度考えても複雑怪奇だが、その当時はその当時の事情があったのだろう。
北円堂の無著・世親像は2025年春に予定されている奈良博の130年記念「超国宝―祈りのかがやき―」展に出品予定のようだ。
アクセス
興福寺は近鉄奈良駅から徒歩5~10分ほど。北円堂は境内の西端の北側(大宮通り側)にある。