南大門を入ってすぐに右手の緩やかな坂をどんどんと上っていくと二月堂、法華堂、四月堂、開山堂などが並ぶ上院地区と呼ばれる一帯に出る。右手に手向山八幡宮の大きな鳥居が見えるがその左隣、手向山八幡宮の方を向いているのが法華堂だ。法華堂には名前がたくさんあり、その昔は本尊である不空羂索観音から「羂索堂」と呼ばれ、毎年3月に法華会が行われたことから「三月堂」とも呼ばれている。最近では三月堂と呼ばれることの方が多いかもしれない。南面する法華堂を正面からみると実に堂々とした趣で、東大寺の中でも転害門と並んで現存する最古の建築物であることがよくわかる。
堂内
空間が広く重く、尊い。何かひとつの宇宙に入り込んでしまったかのような雰囲気は圧倒的な存在感を誇る本尊不空羂索観音菩薩立像が放つ強いオーラと、それを囲む奈良塑像群の「質量」によって生まれている。「祈るしかない」空間だ。奈良時代の人々の祈りの強さをもっとも感じられる場所のひとつだろうと思う。合掌した後は、仏像群を正面に眺められる畳敷きの縁側のようなスペースに座って心ゆくまで堂内の時間を楽しむ。奈良に拠点を移して何よりも嬉しいと思うのは三月堂のような空間に自宅から自転車で思いたった時に行けること。東大寺友の会に入っているので常に入堂も無料。現代を離れ、一気に古代へとタイムスリップする。友人が「三月堂の畳の上に気が付いたら二時間いました」と言っていたがその気持ちが良くわかる。
本尊の後ろ側にまわると厨子に入った国宝執金剛神立像があるが、年に一度の特別拝観の日(12月16日)だけしか厨子の扉は開かない。藝大生による彩色された摸刻はいつでもみることができる。
国宝
本尊:不空羂索観音菩薩立像 奈良時代 8世紀中頃
執金剛神立像 奈良時代 8世紀中頃
伝日光・月光菩薩立像 奈良時代 8世紀中頃 (東大寺ミュージアム所在)
金剛力士立像 奈良時代 8世紀中頃
梵天・帝釈天立像 奈良時代 8世紀中頃
四天王立像 奈良時代 8世紀中頃 (戒壇院所在)
重要文化財
弁財天立像 奈良時代 8世紀中頃
法華堂と東大寺創建の謎
東大寺長老で第218世別当森本公誠氏の著書「東大寺のなりたち」(岩波新書)はじめ複数の歴史書、そして仏像関連の書籍で言及されていることだが、実は東大寺の創建時代のことについてはまだまだ分かっていないことの方が多い。東大寺の前身的存在であった金鍾寺(金鐘寺)や福寿寺(未確認)などに祀られていた像が法華堂に移されてきたのでは、という見方もある。不空羂索観音の八角二重基壇や本堂の建築部材の伐採年が730年前後ということが分かっている。そうであれば不空羂索観音の発願着手は更に時代をさかのぼると考えるのが普通だ。聖武天皇と光明皇后の皇太子、基王が一歳にも満たないまま亡くなったのが728年だった。これは偶然ではないだろう、と森本氏も指摘されている。ここで基王の菩提追善のために作られたのは「山房」と呼ばれているが、これがその後に「金鐘寺」となり、そして「金光明寺」になり東大寺となったという説もあり、説得力がある。
戒壇院のスターとして有名な四天王像も元は法華堂にあり、不空羂索観音のある八角二重基壇の上にあったということが分かっている。伝日光・月光菩薩と作風がとても似通っているのでこれらの優れた塑像群が同じ空間にあったというのはとても自然に受け入れられる。
東大寺を訪れる機会があれば是非法華堂の祈りの空間に足を運んでほしい。